302号室の個室をそと覗くと、彼女はいつも静かに本を読んでいた。
スライドドアの隙間から見えるのはいつも変わらない光景だ。
赤色のブックカバーに添えられる透けるような青白い手は中でも印象的で、そのアンバランスさに何度生唾を飲んだことだろうかとアーニャは思う。
そのまま息を殺して中の様子を窺っていると、彼女がやれやれと首を振ったのが見てとれた。
「そんなところで見てないで、中に入ったらどうだ?」
「…お邪魔します。」
少しだけ灰色がかったドアを横に引く。
そこでやっと、彼女の全体像が見えるのだ。
腰まで伸ばした麗しい髪は真っ白なシーツにたゆたい、大きな瞳はまるでアメジストのような輝きを秘めていた。
「君はいつも飽きないな。」
「ここは居心地がいいから。でも…」
どうして貴方は私を拒まないで部屋に入れてくれるの?
一番初めにもした質問を再びすると、彼女は笑ってこう答えるのだ。
「外の世界が知りたいからだよ。」
聞けば彼女はここから病院の外に出たことがないのだそうだ。
生まれつき身体が弱くて、本でしか『世界』を知れない人。
それが彼女、ルルーシュ・ランぺルージ。
「生憎いつものやつしかないが、それでよければ。」
「それがいい、です。」
私がそう答えるとそうかと一言返ってきて、彼女は電気ポットのボタンを押した。
こぽこぽという音と共に小さめのカップにレモンティーが注がれる。
市販か、お手製かは分からなかったが、私はそのレモンティーの味が好きだった。
いや、それ以前に“彼女が淹れたから”好きだったのかもしれない。
丁度いい量になると、ボタンを押す手をそっと離し私の小さな手にそれを渡して彼女は笑んだ。
「さて、今日は何の話を聞かせてくれるんだ?アーニャ」
「今日はね、今日は――――――」
彼女は私が話している間、一切口を開かなかった。
自分のことを言うことなんてなかったし、相槌をうつこともなく。
ただ静かに、想いを馳せるようにして彼女は私の話に耳を傾けていた。
やがて窓の外の青がオレンジに変わっていくと、自然にお茶会はお開きになる。
そしてその流れで私は部屋をあとにするのだ。そう、いつもならば。
しかしこの日は違っていた。ドアに手をかけた私を、彼女が呼び止めたのだ。
「待ってくれ、アーニャ!」
ふらつきながらもベッドから立ち上げる彼女の顔は、ここからは逆光になっていてよく見えない。
「いつも楽しい話をありがとう。」
「?どういたしまして…」
一文字一文字がやけにクリアに聞こえていた。
彼女の絹髪に夕日が反射し、天使の輪がかかるのを見て私は眩しさに目を薄く閉じる。
そんな中彼女はぽつりと呟いた。
「私も、見たかったなぁ。アーニャがいる、外の世界。」
遠い眼をしていう彼女がどこかに行ってしまうような気がして、私はその白い手を掴んで強く言う。
直接心までもを掴むように、強く。
「見れるよ、行けるよ、出られるよ。一緒に行こう?私がたくさん教えてあげる。知らない事も、全部全部ッ!」
ぎゅっと握ると、握り返される細い指。
決して温かくはないその手。ひんやりと冷たく、生気のない青白い手。
「アーニャは優しい子だな。」
ふふ、と笑う声はどこか寂しそうだった。
それから私の手をゆっくり離し、自分からドアをすっと引く。
「さぁさ、良い子はもう帰る時間だ。」
「ルル姉ぇ、明日も、来てもいいですか?」
縋るように言うけれど、彼女は曖昧に微笑んだだけだった。
そうして私と彼女との間を、グレーにくすんだ壁が隔てる。
***
次の日、私はいつもの昼からの訪問は止め朝一番で彼女の病室に向かった。
心臓が早鐘のように鳴る。
気持ちを落ち着けるように上を向くと、在室を表わすネームプレート。
ルルーシュ・ランぺルージと彼女の名が入ったそれを見て安心した。
やっぱり、私の早とちりだったのだと。
昨日のようにドアを少しだけ開ける。
そうすれば、赤いブックカバーと彼女の白い手が見えるはずなのだから。
―――覗いた先には、皺一つない整ったベッドが置いてあるだけだった。
「……嘘。」
レモンティーの入った電気ポットも、ベージュのチェストも、伏せてあったカップさえない。
まるで彼女なんて、最初からいなかったみたいに。
ドアを開ききって絶望に浸る私の背後に気配を感じた。
微かな希望を持って振り向くが、望んでいた人ではなくて肩を落とした。
そこに立っていたのは彼女ではなく、白衣を着た栗毛の若い男だった。
「君は、ルルーシュのところにいつも来てくれていた…」
「アーニャ・アールストレイムです。」
ぺこりと頭を下げる。
向こうも深く頭を下げ、綺麗なエメラルドの瞳に影が落ちる。
白衣の男はそっと彼女の病室に入ると、静かに口を開いた。
「『ありがとう』って言ってた。それと、『すまない』とも。」
「そう…ですか」
それはやっぱり彼女がもういないということを表わしていて、私はぽっかりと穴のあいてしまったような胸をぎゅっと押えた。恐らく分かっていたのだろう。―――もう長くないのだと。
だから昨日あんなことを言ったのだ。今生の別れと知っていて、それで。
「―――…っっ」
頬に一粒、涙が落ちたら止まらなかった。嗚咽が漏れて、白い室内に響く。
唇をいくら噛みしめても、それは無意味な行為だった。
「…っおかしいと、思いますか?」
「…何がだい?」
背を向けていた男にくるりと振り返り、ぐっと涙を拭う。
「ついこの間まで全くの他人で、…っ、話すようになったのも最近でっ…出会ってまだ二週間も経っていないような関係なのに、一人でこんなに泣いて…私っ、」
思い返せば返すほど、彼女の優しい笑顔が蘇る。
風にそよぐ髪の一房も、好奇心に煌めくアメジストも、柔らかな声音も全てはっきり思い出せる。
嗚呼、彼女の存在がこんなにも大きかったなんて。
「…おかしくなんかないよ。」
「え?」
男は慈しむような目で私とベッドを交互に見やった。
「大切な人を想う時の気持ちって、“そういうもの”だと思うから。」
「……っ!」
彼の言う“そういうもの”が子どもの私には分からない。
でも彼には分かるのだろう。
目尻に薄く残る塩と、大きな掌に巻かれた包帯がそれを雄弁に物語っていた。
きっと彼もまた泣いたのだ。血がにじむほどきつく拳を握りしめ、彼女の死を悼んだのだ。
それは多分、彼にとっても彼女は大切な人だということを指している。
「っありがとうございました。」
悲しさの方が勝るけど、自然に笑顔を作ることができた。
彼女はこんなにも愛されていたのだと、嬉しみも感じる。
少しだけ胸が暖かくなったのを機に、私はこの場所に別れを告げようとベッドに背を向ける。
「あっ、ちょっと待って!!」
「―――ッ!」
まるで昨日の別れ際を思わせるセリフに身体が反応を示す。
振り向いた先には当然彼女は佇んでいない。
「これ、君にって。ルルーシュから。」
「…これ 、」
男から渡されたものは、愛用の赤いブックカバー。
私が持っても彼女を彷彿とさせたりはしなかった。
これに似合うのは、白く細い儚い指と薄い手の平。私の血色のいい手では決してない。
それが、この品を彼女のものだと裏づけてくれるようで、なんだか嬉しい。
「重ね重ねありがとうございます。でも、本当に私が…?」
貰ってもいいんですか、と続く言葉は男に遮られた。
「それがルルーシュの望みだからね。」
「…望み、」
そう言えば、彼女が私に望んだことは遂げられたのだろうか。
『外の世界が見たい』というささやかなお願いごと。
小さな箱庭から飛び出すことが出来た今、あなたはこの清々しい青空を見ているのでしょうか。
そっと窓際に立って、ブックカバーを太陽にかざす。
するとその滑らかな赤い革は、返事をするように一瞬光輝いた。
真っ白な鳩が飛ぶ空は、どこまでもどこまでも広い。
End.
一応アニャにょルル現代パロ…のつもり。しかも死ネタて…orz
ファイルを漁ってたら出てきたので打ちなおしてみました。
多分書いたのは7月くらいかなー…。もう文体が少し古い感じ。
しかしこれ、現代とにょ設定全然いかせてないよ!
(初出 08.10.14)
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